松嶋屋
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松嶋屋についてAbout Matsushimaya

片岡仁左衛門家

“松嶋屋”歌舞伎の伝承 ―祖父から父へ、そして子へ―

松嶋屋、片岡仁左衛門家は当代で十五代を数える歌舞伎の家系です。初代は元禄期に大阪で活躍した名優で敵役を得意にしました。一時期名跡が絶えますが、天明7(1787)年に二代目浅尾国五郎が七代目として仁左衛門を襲名して名跡が復活しました。八代目は美貌の立役で大阪、京都、江戸の三都で活躍しましたが、その四男が十三代目の父、現・仁左衛門の祖父に当たる十一代目です。

我當と名乗っていた明治初期には初代中村鴈治郎と人気を二分する関西の花形スターでしたが、東京へ移って明治40(1907)年に仁左衛門を襲名。以後は歌舞伎界の重鎮として義太夫歌舞伎、新歌舞伎、和事狂言など多彩な分野で数々の当たり役を残しました。十一代目は開明な人で、我が子の十三代目に新しい俳優修業をさせました。戯曲をもとに役を創造するという方法です。

十三代目は東京で生まれ、昭和7(1932)年に始まった青年歌舞伎という若手公演の座頭になるのですが、初役を演じる度に専門家を招き戯曲<浄瑠璃>と演技演出(型)の研究会を開き、一方で古典の役についてはそれを得意にしている先輩に教えを乞いました。十一代目がそうさせたのです。昭和14(1939)年に青年歌舞伎が解散して十三代目は関西歌舞伎に移籍します。

大阪は片岡家の第二の故郷で、花形時代に現・仁左衛門が活躍した地です。松嶋屋の家の芸には上方狂言が多数あります。十三代目は次々にそれらを演じ、江戸と上方の両方の歌舞伎の演技演出を体得しました。

昭和30年代になって関西歌舞伎は低迷し危機に立ちました。十三代目は生まれ故郷の東京へ戻ることも出来たのですが上方歌舞伎を守り抜く決意を固め、私費を投じて大阪で仁左衛門歌舞伎を旗揚げし、それが以後の関西歌舞伎復興につながりました。

『菅原伝授手習鑑~道明寺』昭和63年2月歌舞伎座
菅丞相(十三代目片岡仁左衛門) ©松竹(株)
『菅原伝授手習鑑~道明寺』平成27年3月歌舞伎座
菅丞相(十五代目片岡仁左衛門) ©松竹(株)

江戸歌舞伎の場合は荒事の『暫』や『勧進帳』に見られるように型が完成しています。上方狂言では『廓文章』にしても『封印切』にしても各家によって台本も演じ方も違っています。個人の芸風や工夫を重視するのが伝統になっています。

十一代目の教育法がそんな上方歌舞伎の伝統を物語っていますが、十三代目もその伝統に従って役作りをしました。十三代目の当たり役に『菅原伝授手習鑑』の菅丞相がありますが、父の演じ方を学びながら、初代鴈治郎の演じ方を加味して自分の菅丞相を作り上げました。『廓文章』の伊左衛門の役でも、松嶋屋型は前半に可笑しみを見せる場面があり、全体に華やかな芝居になっています。義太夫歌舞伎では原作の浄瑠璃を読み込み独自の演技をみせてきました。

現・仁左衛門も父の薫陶を受けて修行を重ねてきました。青年時代は関西歌舞伎が不振だったため苦労しましたが、仁左衛門歌舞伎で『女殺油地獄』の与兵衛、『義賢最期』の義賢などを演じて注目を集め、やがて東京へ出て坂東玉三郎と共に花形歌舞伎に一時代を築きました。与兵衛も義賢も仁左衛門が先輩の演技を参考に自分で作り上げた役です。

以後もその姿勢を貫いて役を演じています。現・仁左衛門も松嶋屋に伝わる演じ方を尊重していますが、型通りにするという受け身の役作りはしていません。当たり役の『千本桜』の権太にしても『熊谷陣屋』の熊谷にしても独自の演技演出を創造しています。上方狂言だけでなく南北物、黙阿弥物、『勧進帳』の弁慶や『助六』といった歌舞伎十八番まで演じて当たり役にしているのも、声良し姿良しの生来の美質に加え、研究熱心で創造して役を作るという姿勢を貫いてきたからです。

歌舞伎の歴史の中で受け継がれてきた演出、型はもちろん大切ですが、現・仁左衛門がなにより尊重しているのは「心」です。それは長男 孝太郎と孫 千之助にも受け継がれています。

それぞれの思いの中で歌舞伎に向き合う松嶋屋三代。皆様には今後とも、末永く歌舞伎の舞台を見守っていただければと思います。